人形工房 吉貞

男の子のお誕生日のお祝いに

端午の節句の意味とは

もともとは、男子の誕生に対しての思いが現在とは、少々違ったように思います。 昔の男の子に求められたのは、家の跡取り、立身出世、強く逞しく、等々そのため男の子の節供は、外に向かってのものがあるわけです。 たとえば、武者幟や鯉のぼり庭や畑や門等に立て、ご近所に対しての披露目の意味がありました。 またこの幟類がひらひらする事で神社の幣束同様、神様に降りてきてもらう為の、よりしろの役割もあるようです。

羽子板 号数

端午の節句になぜ五月人形(鎧兜)を飾る

家の中に飾る鎧や兜等がお雛様同様、
赤ちゃんの分身として赤ちゃんの代わり
となって厄災をひきうけてくれるための
贖物(あがもの)や撫物(なでもの)の
ような役割となります。

五月人形の飾る時期

五月人形(鎧兜)は一般的に3月下旬~4月中旬くらいに、
遅くても4月29日までには飾りはじめ、
こどもの日を過ぎたくらいで仕舞うのがよろしいと思います。

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名札名入れサービス

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人形工房 吉貞の五月人形(鎧兜)

一生に一度の贈り物、良い五月人形(鎧、兜)を。
五月人形(鎧、兜)は、いわば生まれてきた赤ちゃんの分身であり、厄災や不幸を引き受けてくれるものです。
昔からの慣わしや風習だけとなり形骸化していく気がしております。
そこで、先人たちがどういう思いでこの行事を始めたのか、どのように変遷して今形になってきたのかなど、ぜひ次の世代まで伝えたいそんな思いで販売しております。

配達サービス

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五月人形について

五月人形の意味と歴史

五月人形には子供の健やかな成長を祈るという意味がありますが、これは子供に降りかかる災厄を代わりに引き受けてくれる人形(ひとがた)・形代(かたしろ)としての意味があるということです。そのため、男の子の強さや勇ましさを象徴する鎧兜や武者人形という形になったのですが、この形式に至るには長い歴史があります。

端午の節句の発祥は古代中国になります。

今は端午の節句は新暦5月5日に行っていますが、元々は旧暦5月の最初の丑の日でした。これは今の6月に当たり、急に暑くなる季節の変わり目にあたります。このようなときに体を壊さないように厄除けや毒除けの行事をしていたのが、端午の節句の始まりです。このときに厄除けのために菖蒲やヨモギを家や門に飾り、健康増進のための縁起物として粽を食べていた風習が今に続いています。「楚辞」に歌われているというので、少なく見積もっても2400年前からあったようです。

中国の戦国時代の楚国に屈原という人々の信望の厚い政治家がいました。彼は国王の側近であり詩人でもあったのですが、陰謀によって失脚し、汨羅という川に身を投げて自殺してしまいます。その際に読んだ詩の「離騒」は名作として今に至るまで称賛されています。

その屈原の死を悼み、屈原の命日の5月5日に、楚の民衆は小舟で川に行き、多くの粽を川に投げ入れて屈原の死体を魚が食べないようにするという供養行事を行うようになりました。

この2つの行事が合体したものが、中国の端午の節句となります。

なお、丑の日の丑の発音と五の発音が同じであるために、5月の最初の丑の日は5月5日になったようです。これも三国志の魏のころの話だというので、ずいぶん古い話です。

端午の節句が日本に伝わったのは飛鳥時代になります。日本書紀に推古19年(611年)5月5日に「薬猟りす」という記述のあるのが最初です。ここでいう「薬」とは鹿の角のことで、鹿猟になりますのでこれは男性の仕事。女性は野原で薬草を摘んでいました。万葉集に収録されている狩をしている大海人皇子に対して、額田王の「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」と詠んだのは、このような背景があります。

奈良時代には菖蒲を髪飾りにした貴族が武徳殿に集まり、天皇から薬玉を賜るという宮中行事になりました。また鹿猟は実際に狩りをするのではなくて、走馬や騎射を観覧するという形式になっていきました。

宮中行事であった端午の節句は、平安末期の武士の誕生とともに武家社会へと普及していきます。宮中で走馬や騎射を行っていたのは貴族の警護をしていた武士だったでしょうから、彼らがその習俗を自分たちの社会に持ち帰ったのでしょう。

しかしこれは、そのまま持ち込まれたのではなくて、独特のアレンジを加えられたものになりました。鎧兜と飾り幟をたてた男の子の節会へと変化します。

これには、元々の日本の農村社会において端午の節句とよく似た風習があったことも関係しています。日本では稲作を開始する田植祭と秋の収穫祭があり、春の田植えでは山から神様をお迎えし、秋の収穫祭では神様をお見送りするという神事が行われていました。お迎えした神様は収穫までの間田んぼを守ってくれると考えられていました。この収穫祭の際に神迎えをするのが若い女性(早乙女)たちで、彼女たちは菖蒲とヨモギで屋根を葺いた小屋を作って忌みごもりをしたといいます。

貴族社会と農村社会の両方をつなぐ場所にいる武士階級が、農村に古来よりあった春の収穫祭の習俗と、貴族社会の端午の節句を、それぞれの意味を残しながら新しい自分たちの節会として作り上げていったといえます。

もともと鎧兜は湿気に弱いので、旧暦5月頃に虫干しをするという習慣がありました。当時の実用品である鎧兜を飾るというのは飾ることそのものが目的ではなくて、メンテナンスが目的だったわけですが、それを飾りものと見立てたわけです。収穫祭のときは神様が山から降りてくるという発想だったのですが、ここでは鎧兜を依代として先祖のご加護が男の子に与えられるというように変わりました。これは、実際に鎧兜が先祖代々引き継がれるものであることと、身を守るものであること、武家が男系社会であり家宝の鎧兜を相続することが家の継承の象徴的な行為だったということからすると、自然な発想であったといえます。また粽を食べたり菖蒲湯に入るというのも引き継がれました。

こうして日本では端午の節句は武士階級の節会として、鎧兜を飾って男の子の成長を祈るというものになりました。これが武士階級以外に普及するのは江戸時代になります。

江戸幕府は端午の節句を重要な式日と定め、大名や旗本が将軍にお祝いを述べるという行事が行われました。また将軍に男子が生まれると表御殿の玄関に馬印を立ててお祝いをしました。

これを真似た町人が、馬印のかわりに紙で作った鯉の吹き流しを玄関に飾るようになりました。さらに鯉のぼりに加えて紙で作った兜や人形、布や厚紙に描いた武者絵などが飾られるようになります。これが後の五月人形につながっていきます。

鯉のぼりは江戸の中期から巨大化していきましたが、黒の鯉(真鯉)が一匹だけでした。現在のように一本の竿に何匹も泳ぐようになったのは明治時代以降で、さらに赤の鯉(緋鯉)も飾られるようになりました。昭和30年代になると青や緑やオレンジの恋も加わり、真鯉を父、緋鯉を母、小さな色とりどりの鯉を子供と見立てて、平和な家庭の象徴と考えられるようになりました。

五月人形の種類

五月人形には内飾りと外飾りがあります。内飾りとは家の中に飾る飾りで、子供に降りかかる災厄を代わりに引き受けてくれる人形(ひとがた)・形代(かたしろ)の役割を持つものです。外飾りは家の外に飾るもので、典型が鯉のぼりですが、武者絵旗を飾る家庭もあります。男の子の誕生を天の神様に伝え、一家の繁栄を願って飾られます。

内飾りには鎧飾り、兜飾り、武者人形飾りの三種類があります。

鎧飾り

鎧飾りは日本風の端午の節句のオリジナルのもので、鎧、兜、弓矢、太刀がセットになったものです。日本の鎧はもともと付属品と一緒に鎧櫃とよばれる箱に収納されており、展示する際はその鎧櫃に芯木を立て、それに着せるように鎧兜を装着し、脛当と毛靴を鎧櫃の前に置くことで、甲冑姿の武士が鎧櫃に浅く腰掛けているように見える飾り方をします。

鎧兜は平安時代後期の誕生の頃から江戸時代までの間に大きく変化していきます。例えば我々が大河ドラマやシミュレーションゲームなどで見ることの多い戦国時代の武将の着用していた鎧兜は、当世具足とよばれ、一枚板を打ち出した構造や、兜に装着する前立が大型化し派手なものになっていますが、五月人形の鎧飾りでは大鎧とよばれる平安時代末期に成立した形式になっています。これは当世具足の時代になっても大鎧は格の高い正式な鎧だと思われていたこともありますが、当時の人にとっても歴史を感じさせるデザインであったことが、先祖代々引き継がれるものというイメージを強くしたからでしょう。

兜飾り

兜飾りは兜だけを飾るものです。

見た目の重厚さでいうと鎧飾りが圧倒的なのですが、大げさすぎるというところもありますし、江戸時代に武家の習俗を町人が真似たという経緯からしても、はっきりと武家や士族と認識しているご家庭はともかく、そうではない場合、大鎧を飾るというのはちょっとしっくりこないところがあったのかもしれません。また、面頬をつけた大鎧は見た目が相当威厳がありますので、子どもが怖がってしまうというのも現実的な問題としてあったものと思います。子どもを守るものですので、武家ならば怖くて強いご先祖様というのもいいのですが、町人としてはやりすぎな感じがしてしまったのでしょう。

兜は頭部を守るもので、現在のヘルメットと同じ役割のものです。人間の体のうち頭部がもっとも重要な部位であるというのは古今東西どこでも同じ認識になるものですし、子供の守護に武士の強さをあやかるという意味で、兜を象徴的な存在とするというのは、自然な流れであったと思います。

もしくはもっと簡単に、兜が一番見栄えがするからということもあると思います。先述のように五月人形の鎧飾りは大鎧が多いのですが、兜飾りの場合は当世具足も多く、特に最近は歴女などのブームもあるせいで、戦国武将の変わり兜をモチーフにした兜に人気があります。

人気の一位は三日月の前立の伊達政宗。有名な愛の前立の直江兼続、赤い兜に鹿の角の真田幸村、三日月と日輪があしらわれている上杉謙信、歯朶のあしらわれた徳川家康、諏訪法性兜とよばれる武田信玄、それに豊臣秀吉に織田信長など。これらの兜は実際に見てみるとだれもが「見たことがある」と思うものなので、大人にも大変人気があります。

武者人形

武者人形は男の子が甲冑を纏った人形です。江戸時代に端午の節句が町人にまで広がったときに、継承している先祖伝来の鎧などない町人は、紙で作った人形や武者絵を飾りました。コンセプトは鎧兜の厳つさから、もっと子供受けのする柔和なものへと変わっていきました。それでもモチーフとしては、武士と関係のある金太郎や鍾馗様が好まれました。

金太郎は力の強い男の子で後に出世して坂田公時という有名な侍になったことから、立身出世物語として浄瑠璃や歌舞伎を通じて知られていました。

鍾馗様は中国の道教系の民間信仰で、長い髭を蓄え、剣を持ち、にらみつけるポーズを取っています。伝承では唐の玄宗の時代に実在した人物であるらしく、明の時代に端午の節句に厄除けとして鍾馗図を飾る風習が生まれました。それが日本に伝来し、室町時代以降は漢画の画題として好まれましたが、江戸時代末には五月人形としても採用されていきました。

現在でも金太郎と鍾馗様のモチーフは好まれてはいますが、どちらもだんだん馴染みのない存在になってきています。金太郎は童謡と名前は知っているけど何をした人なのかよく知らないという人が多いですし、鍾馗様は名前も忘れかけられています。そのため、牛若丸や弁慶や桃太郎をモチーフにしたものも増えていますし、特定のモデルのいないものもあります。

五月人形の寿命

五月人形はかつては先祖伝来の鎧兜だったのでしょうが、武士階級がなくなり、男系で相続する家という観念が薄れてくるにつれて、人型・依代としての役割が強くなってきました。そのため五月人形は親から子、または兄から弟へと引き継がれるものではなく、その子限りのものとして、その子の災厄を代わりに引き受けてくれるものとなっていきます。そのため、どこかのタイミングで処分することが必要になります。

元々が民間伝承であり神事ではないために、特に決まった処分の時期といったものは決まっていません。なお、五月人形は神様ではないので、飾る期間や置き場所や置く角度なども決まっていません。その家の具体的な間取りや天候(晴れた日に出し入れするほうが良い)によって決めればよいのですが、処分に関しても同じで、その家ごとの習慣や都合に合わせて決めれば良いこととなっています。

具体的には、子どもが7歳になったから、小学校を卒業したから、子どもが喜ばなくなったから、出し入れや保管が大変だからという理由のご家庭が多いです。

ただ、愛着もありますし、子どもの身代わりになってくれたものでもあるので、ただ粗大ごみとして捨てるのは忍びないという気持ちになるご家庭も多いです。人形供養をしている神社やお寺もありますので、そういった所に委託するのも良いでしょう。

五月人形のお手入れと保管

五月人形を飾る期間ははっきりと決まっていませんが、概ね4月中旬から梅雨入り前ぐらいの2か月程度というところが多いです。この間のお手入れははたきで叩いてホコリを落とす程度で良いのですが、これはそれ以前の置き場所の選定のほうが大切です。直射日光が当たると人形が色あせしたり変色したりするので、直射日光の当たらない場所にしましょう。エアコンの風が直接あたりところも避けます。また水気に弱いので、風通しがよく乾燥した場所を選びます。

保管する場所も同様で、直射日光が当たらず湿気の少ない場所を選びます。冬に結露しやすい北側の窓に近いところは避けたほうが良いです。押し入れは湿気が少ないので上段に保管するほうが好ましいです。また、手についた油脂が付着することを防ぐため、片付けるときは手袋をし、湿気を防ぐために晴れた日に片付けをするのが望ましいです。

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